1.生涯について
坪内逍遙博士は、岐阜県美濃加茂市の出身です。太田小学校の辺りにあった、尾張藩太田代官所で働く手代(現在の職員)の子どもとして生まれました。
生まれた時代は、安政という幕末で、ペリーの来航などがあり大きく時代が変わろうとした時です。
その後、父が代官所の仕事を引退した時に、家族そろって名古屋へ移住しました。
名古屋に移住してから、逍遙博士は「大惣」という貸本屋に通い、本をよく借りたそうです。(貸本屋とは、今の図書館のように無料で本が借りられるのではなく、お金を払って本を借りるところでした。)
子どもの頃は、絵や字を書いてたくさん紙を使ったことから逍遙博士は「未年生まれの紙くい虫」と呼ばれていたそうです。逍遙博士が生まれた1859年は干支の未年にあたります。逍遙博士は生まれ年の干支「未」の品物を集めていました。
大学は東京大学へ進学し、卒業後は、早稲田大学の前身である東京専門学校で長い間先生をしていました。早稲田中学の創立にも携わり、教頭先生もしていました。
早稲田大学内には「早稲田大学 坪内博士記念演劇博物館」があります。博物館をつくった坪内逍遙博士にちなんで名前がつけられ、演劇博物館の“演”と“博”で「エンパク」と呼ばれています。校舎の間を抜けた先に、周囲の建物とは少し異なる雰囲気をもつ、すてきな博物館です。
ここには役者絵のコレクションが収められていますが、これは坪内逍遙博士のコレクションから始まっています。約47,000枚あり、ひとつの博物館としては世界一の保有枚数です。
博物館の正面には、ラテン語である言葉が書かれています。
Totus Mundus Agit Histrionem
『世界はすべて劇場である』
演劇を改革し広めようとした逍遙博士にふさわしい言葉ですね。
2.作品
『小説神髄』
坪内逍遙博士は小説家として広く知られています。小説を芸術として高めたいと考えた代表作「小説神髄」は、その後の二葉亭四迷など、多くの文学者に影響を与えました。
『桐一葉』
坪内逍遙博士が書いた劇、「桐一葉」は、実在の人物・事件のことをできるだけ史実にもとづいて歴史劇を書いた作品です。
『シェイクスピアの翻訳』
逍遙博士は、イギリスの劇作家・シェイクスピアの主な作品すべてを日本人で初めて日本語訳にした人です。「ロミオとジュリエット」「ハムレット」「ベニスの商人」など皆さんの知っている作品も、日本語に訳しています。
逍遙博士の訳したシェイクスピア全集は、全部で40巻あります。40巻に収められているすべての作品を一人で翻訳しました。
3.美濃加茂市と逍遙博士
・美濃加茂市立蜂屋小学校には、坪内逍遙博士が作詞をした校歌があります。当時の有賀好風校長が、逍遙博士に手紙を書いて、お願いをしました。逍遙博士は快く引き受けてくださり、蜂屋小学校では今でもこの校歌が歌われています。
・美濃加茂市では、坪内逍遙博士の活躍を広く知っていただくために、「坪内逍遙大賞」「ミノカモ学生演劇祭」「逍遙フォーラム」等のイベントを行っています。
その中の「坪内逍遙大賞」は、演劇や舞台で活躍した人や団体を表彰しています。これは、坪内逍遙博士が古いものを大切にしつつも新しい道を拓こうと演劇の改革を目指したのと同じような活躍をしている個人や団体を表彰するものです。第17回目は、NHK朝の連続テレビ小説「半分、青い。」の脚本などで有名な北川悦吏子さんが受賞されました。北川悦吏子さんは、美濃加茂市の出身です。
・太田小学校では「山椿の歌」という歌を歌っています。これは逍遙博士の詠んだ歌に曲を付けたものです。
その歌とは、
「山椿 咲けるをみれば ふるさとを 幼き時を 神の代をおもふ」
「この木の実 ふりにし事し しのばれて 山椿花 いとなつかしも」
椿を見ると、ふるさとのこと、小さいころのこと、「木の実ふり」という遊びをしたことを思い出すという意味です。
4.おまけの話
・坪内逍遙博士の「逍遙」はペンネームで(本名は坪内勇蔵(のちに雄蔵))、「逍遙」とは「ぶらぶら歩きまわる様子」という意味です。本名ではなく、このようなユーモラスな名前をペンネームにしました。
・坪内逍遙博士が過ごした熱海の双柿舎には、母屋や離れのほかにも三階建てのユニークな建物があり、その建物のてっぺんにはカワセミをモチーフにした風見鶏がいます。
これは、シェイクスピアの「リヤ王」第二幕の中にある詩句からヒントを得たと言われています。
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